柴田雄一の略歴

ちゃきちゃきの江戸っ子だがちゃきちゃきはしていない。一見計画性があるようだが結構無謀。

  • 大学卒業後半導体電子部品メーカー5年在籍後、ある出来事をきっかけに当時TOEFL300点台の英語力(相当恥ずかしいレベル・・・)でMBA取得を目指す。
  • 渡米1ヶ月前にハーレーを駆り日本一周を決行するも、出発して1日目にして全治3ヶ月のもらい事故。健康の大切さを知る。
  • アメリカ大陸を車での横断も15年落ちの愛車ダッジラムが故障の連続。日本車の品質の高さと自分の無謀さを改めて知る。
  • ニューハンプシャー州の片田舎の大学院に入学。学びながらも地元のベンチャー企業にも所属。なんとかMBA(経営学修士)を取得。勉強の大切さを知る。
  • 帰国にはシベリア鉄道を使用し、ユーラシア大陸を横断。イルクーツクにて米国同時多発テロ9.11を経験し混乱に巻き込まれる。数日前までそこに滞在しており運命とは何かを考える。
  • 帰国後、大手経営コンサルティング会社に就職。経営コンサルティング業務に従事。経営のこと、医療業界のことを徹底的に学ぶ。
  • 退職後、“For You” を経営理念に会社設立。現在、クライアントや会社の仲間、家族から多くのことを学んでいる。

柴田雄一の歴史

第1章「生い立ち」子供の頃〜留学前

少年時代

良い子で座っているシーンを写す貴重な一枚

高度経済成長に沸く頃、東京の下町葛飾で柴田は生まれた。勉強もほどほどに近所の仲間を引き連れ、日が暮れるまで街を駆け回っていた。生傷の絶えない子供であった。度胸試しにと、マンションの非常階段から塀伝いで屋上によじ登ったり、自転車に後ろ向きで乗り急な坂道を下ったりと、その頃からチャレンジすること、そしてリスクを取ることが好きだった。

学生時代

学生時代は、車で林道を駆け、そして夏はウィンドサーフィン、冬はスキーで度胸試しは続いた。

「学費以外は、すべて自分の手で稼いだんだ。大学にいる時間より、歌舞伎町(のバイト先)にいる時間のほうが長かったよ」

自分で買った赤のファミリア

柴田は笑ってそう話していたが、実際に勉強との両立は相当苦労をした。大学で彼の選んだ研究は、IE(Industrial Engineering:経営工学)。企業のヒト・モノ・カネといった経営資源を効率的に運用し生産性を向上させていくために、科学的管理手法を用いて分析評価し改善につなげていく実践的学問だ。実際に、師事した教授の後について工場などへ出向き、教授のサポートを受けながら親と同じ世代の現場の人達へ積極的にコンサルテーションをした。もちろん、その間もバイトは続けた。

「あの頃は、ほとんど寝ないでやっていたね。でも少しも辛いとは思わなかったよ。だって、自分のコンサルティングで“現場”が変わるんだよ。面白くないわけないでしょ」柴田は、その頃に今の仕事を選択することを決めていた。

大学卒業後

工場にて/ダットラ4WDで林道を駆け巡った頃

しかし彼が選んだ就職先は、コンサルティング会社ではなかった。

「自分が“現場”を知らずに、質の高いコンサルティングは出来ないな」

そんな想いから、メーカーを選択し“現場”を学んだ。あえて選んだのは中堅メーカー。もちろん、大企業と違って人も少ない中小企業、早い段階からマネジメントの仕事が出来るからだ。2年目からは早速、あるプロジェクトのリーダーを任された。早速成果をあげて、キャリアも順調だった。このままサラリーマンも良いかな。そう思った。(ダットラ4WDで林道を駆け巡った頃)

しかしあるできごとが自分のそんな思いを吹き飛ばして、新たなチャレンジやリスクを背負うことになった。

第2章「旅立ち」留学

日本一周

my ハーレー/事故で壊れた myレッグ

自分の進むべき仕事で必要な“現場”は経験できた。次は幅広い見識や知識が必要と思った柴田は、次なるチャレンジ対象をアメリカでのビジネススクールに通いMBA(経営学修士)取得と決めた。

別に、海外に興味があったわけではない。英語も好きでも得意でもない。それどころかレベルは、中学生以下だった。TOEFL300点台からのスタート。留学に必要な資金も相当な額だ。それが目の前に立ちはだかる現実だった。

しかし、それらの難題も彼の熱い想いと実行力で見事にクリアして留学の目処が立った。留学直前、小さなチャレンジとしてバイクでの日本一周を決行した。しかしそのチャレンジは失敗に終わった。事故に遭い3カ月の重傷を負った。それでも1カ月間の猛烈なリハビリに耐えた柴田は、成田空港に足を引きずりながら立っていた。

北米大陸横断

果てしなく続く道

まずビジネススクールへ通う前の語学研修のために向かったのは、カリフォルニア州のモントレーという太平洋に面した美しい街だった。足を引きずりながら、多くの人の助けを得て、初めての海外生活を経験した。英語もまだ十分ではない。ケガもしている。見知らぬ彼の地での生活。それ自体もチャレンジだったかもしれない。しかし、それだけでは彼のチャレンジ精神は満たせていなかった。さらなるチャレンジは、北半球一周。入学予定のビジネススクールは、大西洋に面したニューハンプシャー州。つまり、アメリカ西海岸から東海岸まで総距離約6,000キロにも及ぶ北米大陸横断計画を立てた。

そこで相棒として選んだのが、15年落ちのダッチラム。サンフランシスコ、ラスベガス、サンタフェ、セントルイスにインディアナポリス、バッファロー(ナイアガラの滝)、そして大学のあるマンチェスターの街へと何週間かかけてたどり着いた。

「面白かったよ」

北米横断

楽しそうに柴田は話すが、その旅は決して順調ではなかった。ポンコツ車はしょっちゅう故障した。ラスベガスでは1週間修理のために足止めをくらった。ラスベガスでは砂漠の真ん中で野宿もした。こちらのちょっとした勘違いでカード決済せずに店を出てしまい、ポリスに追いかけられ銃口を突き付けられたこともあった。

「でも15年落ちのアメ車で、大陸を横断するのはちょっと無謀だったな」

柴田は、それもいたずらっぽく笑って話した。ビジネススクールでは必死になって勉強した。当たり前だが、授業も授業中のディベートやプレゼンテーションもすべて英語。毎日毎日何十ページものテキストを読み込み、大量のレポート提出もこなす。最初は授業についていくのもままならなかった。次第に追いついてくると、更に自分を追い込もうと考えた。

「現地で仕事をしようと思ったんだ」

慣れてきたとはいえ、まだまだ英語レベルは高いとはいえなかった柴田だったが、大学院の授業を夜間に移し、通信機器を扱うベンチャー企業で働くことになった。

「授業だけだと肩が凝るからね。やっぱり現場でしょ」

平然と言いのけるが、クラスメイトからはその英語力で仕事を手に入れるなんてと驚かれたりもしたそうだ。何とか仕事と学業をこなし続け、帰国の日が近づいてきた。

ユーラシア大陸横断

ユーラシア横断

車や家財を売り払った柴田は、ニューヨークのマンハッタンに一週間ほど居た。そして次に向かった先は日本ではなく、ヨーロッパだった。

「北半球一周だからね」

柴田は、シベリア鉄道でユーラシア大陸を横断していた。ちょうど世界遺産にも登録されているバイカル湖のあるイルクーツク(ロシア)のホテルのロビーにあったテレビ画面には、あの米国同時多発テロ9.11のビルへ突っ込む飛行機の映像が何度も流れていた。そう、一週間前に、あそこに自分が立っていた。ロシア語なので何が起こっているのか把握できずにいたが、鉄道の旅で知り合った人たちから情報が入った。

「さすがに鳥肌が立った」

柴田は下を向きながらポツリと話した。その旅も9.11の混乱にも巻き込まれたり、鉄道の到着が予定より10時間以上も遅れたりして、あやうく不法滞在になりそうになったりして大変な思いをしたようだ。それでも多くの人達に助けられながら、なんとか日本の地に降り立つことができた。

第3章「自己実現」帰国後

コンサルティング会社就職

ユーラシア大陸横断

忙しい仕事の合間に御柱祭

次に向かったのは生まれ育った東京ではなく、大阪だった。MBAで習得した知識を実業で活用するため、大手経営コンサルティング会社に就職するためである。そこで、多くの経営者と会い仕事をした。最初の段階では医療の世界とは無縁だった。たまたまの縁である医療機関の経営に触れた。そこで目にしたものは、旧態依然としたマネジメントであった。世界一の品質を誇る日本のメーカーのマネジメントも世界一である。また、アメリカで習得したマネジメントも論理的で効率的だった。

「そういったノウハウを医療経営に導入すればもっと良くなるんじゃないか」

そう思った柴田は、医療業界について一から徹底的に勉強し直した。

そこで医療の様々な問題をより知ることとなった。

そうしてついに柴田は、独自の視点による医療経営のためのメソッドを開発した。しかし、所詮サラリーマンのコンサルタントでは、経営者である院長の気持ちはわからない。医師にはなれないが、経営者になれる。そんな思いや、医療専門雑誌の老舗企業である医療タイムス社の経営者林氏と出会いなどが重なり、柴田は次に選んだチャレンジとして創業を決めた。

ニューハンプシャーMC創業

仲間達

ノウハウだけ提供することも良いが、それだけでは物足りない。労働集約型の医療の現場で最も重要なのは人だ。そう思った柴田は、コンサルティング部門のほかに、医療人材紹介部門(ニューハンプシャー医局)を創業時に同時に立ちあげた。2004年のことだった。

そして今、“For You” という経営理念に共鳴した仲間達とともに日々クライアントのため、また次なるチャレンジに邁進している。